文学フリマにむけて書いていた作品の入稿が終わり、山のように資料が積み重なった机上を片付けていて、ふと読みたくなった本がありました。乗代雄介さんの『旅する練習』です。 宝石はその小ささゆえに芥川龍之介賞は次点(受賞は宇佐見りん『推し、燃ゆ』)、そして三島由紀夫賞を受賞した作品です。帯が資料の山にまぎれてどこかへいってしまったのでうろ覚えですが、「歩く・書く・蹴る ロード・ノベルの傑作」みたいなキャッチコピーが付されていました。 余談ですが、僕はこのくらいの分量(原稿用紙二百枚前後くらい)の、短編一作品からなるハードカバー書籍がとても好きです。なぜなら、この空間に対して余白の多いコンパクトさは、ほとんどそのまま純文学で書く若手作家の可能性そのものだから。 純文学における新人作家の登竜門とされる芥川賞は、主に中・短編をその審査対象としています。それに合わせたのであろう各文芸誌の新人賞も、おおむねこのくらいの規定枚数になっています。いっぽうでベテランになると長いものが増えたり、短編集として編まれたりと、こうした小品はあまり出版されなくなるように思います(たとえば村上春樹さんは、デビュー後数作で長編に移行していったために結局芥川賞を獲らずに終わった、なんて言われることもありますね)。ですから、この小ささ・薄さはとても象徴的なもの。「あえて本にしている」というか、若手作家のみずみずしく荒削りな才能を、出版社が大切に送り出しているような気がして、手にした時に読者として新鮮なよろこびがあるのです。あるいはそれが、脱稿直後の僕自身の気分とも符合していたのかもしれません。 閑話休題、内容についてです。 帯に「ロード・ノベル」と書かれているのだから、もちろんロード・ノベルなはずがない、そう思って読み始めたのでした。 ロード・のべらない小説家の「私」は、中学受験を終えたばかりの姪・亜美とともに、我孫子から鹿島へ向かって徒歩の旅をはじめます。鹿島といえばJリーグクラブ・鹿島アントラーズのホームであり、日本におけるサッカー文化を開花させたはじまりの街。サッカー少女である亜美がかつてそこへ合宿にゆき、ある「忘れもの」をしてきたことが旅のきっかけでした。利根川沿いの堤防を、亜美はドリブルをしながら、そして「私」はおりにふれ野鳥の生態や過去の文学者への追想をまじえた紀行文を書き留めながら、いっしょに歩いてゆくのです。 アントラーズに、そして日本のサッカー人に、選手としてのプロフェッショナリズムを根付かせたのは、ほかでもないアルトゥール・アントゥネス・コインブラ、すなわちジーコでした。作中でもこのジーコと、日本中を歩き回って旅をした民俗学者・柳田國男のふたりの言葉がたびたび引用されます。両者に共通するのは「忍耐」ということですが、それについて印象的な表現を引用してみます。 そして、本当に永らく自分を救い続けるのは、このような、迂闊な感動を内から律するような忍耐だと私は知りつつある。(中略)この旅の記憶に浮わついて手を止めようとする心の震えを静め、忍耐し、書かなければならない。後には文字が成果ではなく、灰のように残るだけだろう。(p.104) その影を残すことが、私にとっては鮮やかな記憶を文字で黒々と塗りつぶすことだとしても、死が我々に忘れさせるものを前に手をこまねいているわけにはいかないのだ。書き続けることで、かくされたものへの意識を絶やさない自分を、この世のささやかな光源として立たせておく。そのための忍耐と記憶——(中略)「人生には絶対に忘れてはならない二つの大切な言葉がある。それは忍耐と記憶という言葉だ。忍耐という言葉を忘れない記憶が必要だということさ」(p.130) 前者は柳田國男の、後者はジーコの言葉を受けたものです。物語の結末にかかわるので、その意味について詳述することは避けますが、しかしこの表現は、僕に次の歌を思い起こさせました。 ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき (藤原清輔) 新古今和歌集に採られ、百人一首にもおさめられている有名な一首ですが、僕は昔からこの歌がとても好きです。追憶のもたらす繊細なセンティメントと、平安人らしい長閑なオプティミズムが溶けあった、なんとも高雅な詠みぶりだと思いませんか。 こうしたノーブルな態度は、単純に「生きられる」ものというよりも、「書かれる」ことによってはじめて意味をもつものであるような気がしています。運命に身を任せるのではなく、かといって悲嘆に暮れるのでもないとすれば、それは記憶され、詠まれ=口にされ、書き留められることによってはじめて楽観論たりうる。それが生の現実とのつながりを保ったまま、同時に現実を超え出てゆくような強靭さを獲得するためには、そこに明確な「意志」の発露がなければならないように思うのです。本作品の題にある「旅」とは、畢竟この「意志」のことではないかと僕には思われます。その意味で、やはりこの物語はロード・ノベルではなかった。茫洋とした道のひろがりを「前にした」小説、まさに「旅する練習」にほかならない。 だとすれば、それは外出を封じられ、うつりゆく世界を前にしながらどこへも旅することができずに自室で「忍耐」を迫られているわれわれにとってぴったりな小説なのかもしれません。 芥川賞の選評では、人物造形の難や、形式を束縛している作者のナルチシズムが問題にされていました。そうした部分についてはいったん措くとして、「現代小説」の試みとして面白いなと思ったので、記事にしておきます。 ひさしぶりのブログなので、今日はここまで。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
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実家の母から突然のLINEです。 「ちょいとお願いです 2度読み返して、こう返しました。 「無茶です(原文ママ)」 母からの連絡は大抵こういった依頼ごとなので内容自体は特筆することもなく、まぁ強いて言えばキャッシュレス全盛のこの時代にクレジットカードの登録方法もわからないのかと嘆息する程度なのですが、ちょうどふた月くらい前の連絡では「ペイペイの登録方法を教えて」とまるでSiriにでも頼むかのように言われたので今回は自分で情報を収集できたことに喜びを見出すべきなのかもしれません。母よ、息子はあなたの成長が嬉しいです。 ともあれさすが天下のシャープ様(ステマではない)、SDGsに則り大衆に向けて即物的な貢献をされる、しかもその宣伝が行き渡っていることの素晴らしさ、その質実剛健なブランディング力(繰り返すがステマではない)に惹かれてちょっと見るだけ見てみようかな、と思い先のサイトにアクセスしてみました。 すると、サイト下部にTwitterの埋め込みバーが。トップには誰かのリツイートが表示されていました。
いうまでもなく寺山修司「書を捨てよ町へ出よう」のオマージュです(よね?)。 ハッシュタグ化されているので皆さんの目にも留まっているかもしれませんが、いやなんとも、うまいこと言ったものです。まさに目のつけどころがシャープ(最近聞かない)。全国的な自主的自宅軟禁ムードにうまく光をあて、かつ巨大企業に求められるノーブルオブリゲーションめいたものも果たす名文。でもなぜだかRT、いいね共にそこまで伸びていない。なんでだろう。こういうところがTwitterの難しいところなんだろうか。 とにかく面白そうだったのでパラパラみてたんですが、界隈ではこのハッシュタグがこの外出自粛期間に読むべきおすすめの本紹介のpostに付されるようになっており、結構な数使われているようでした。とりあえず僕もこれ書いたら流れに乗ってみようかなって思います。 ところで。 僕てっきり「書を捨てよ町へ出よう」は寺山の言だと思っていたんですが、調べてみるとどうやら違うようでした。 寺山修司は言わずと知れた劇作家ですが、彼の主宰した劇団「天井桟敷」は60年代のアングラ演劇ブームの火付け役でした。『毛皮のマリー』『身毒丸』なんかで有名ですね。『身毒丸』は95年に蜷川幸雄演出・藤原竜也主演で、『毛皮のマリー』は昨年2019年に美輪明宏主演で上演されるなど、今でも語り継がれカルト的な人気を誇る戯曲を数多く生み出しました。毛皮のマリー、チケット外れたんだよな……。 (ちなみに僕はあんまり詳しくないんですが、寺山作品を全作品上演することを目標に掲げている【池の下】さんという団体の演出が結構好きです。寺山好きの方はぜひ!) その「天井桟敷」の数ある作品の中でも出世作と言われているのが『ハイティーン詩 書を捨てよ町へ出よう』です。上演の前年に刊行された寺山本人による評論集「書を捨てよ町へ出よう」がタイトルとして選ばれました。 僕は映画版しか見てませんが、 「映画館の暗闇でそうやって腰掛けていたって何も始まらないよ…」 という猛烈なメタ発言から始まる暗くてじめっとした物語軸、憤懣やる方ない青春を過ごす主人公の鬱屈した存在感、過激なミュージカル演出と、胃もたれするような要素がこれでもかと詰まっていたように感じました。 高カロリー高タンパク。 とまあ、冗長に書いてしまいそうになったので閑話休題、 込み入った寺山修司論的なものは詳しい方に任せるとして、問題はタイトルの出典でしたね。 寺山自身は早稲田大学在学時に病気をしたようで、長い入院生活、療養期間の中で大量の本を読んだとされています。そりゃ読むでしょうが、量が尋常ではなかったのでしょう。復帰後その時の経験から評論集「書を捨てよ町へ出よう」を出版、そのタイトルについて巻末にて触れています。これによると、厖大な読書の中で見つけたアンドレ・ジッドの『地の糧』という紀行詩集に、「書を捨てよ、町へ出よう」という言葉が出てくるとのことなのです。 このタイトル、受け取り方は人それぞれですが、おおかた、 「本を読むのはそれくらいにして、外に出ていろいろな体験をしようぜ!」 という反読書論的・体験至上主義的なスタンスを想像すると思います。まるで「この本を読むなよ!」とでも言わんばかりの表題におかしみを感じて多くの人がこの本を手に取ったはず。にもかかわらずそのタイトルそのものがマニアックな本の引用というのはこれいかに。 ともすれば逆にものすごく寺山的であると言えるようなこの斜に構えた命名に、寺山自身は何か説明を付しているわけではありません。しかし寺山は、それにジッドは、どうやら生涯を通して大変な読書家であったらしいということがあちらこちらで見受けられます。 一方で、知識への執着から抜け出し、生の実感を得るべく体験を求めるという筋書きには、 他にも思い当たるところがあります。 18世紀ドイツの文豪ゲーテの戯曲『ファウスト』。その主人公であるファウスト博士は、当時ヨーロッパで主柱とされた哲学・神学・法学・医学そのどれもに精通していた大天才でした。しかし博士は猛烈な知識の探究・研究の果てに、ほんとうに知りたいことは学問ではわからないということに気づき絶望します。彼は誘惑の悪魔メフィストフェレスを召喚し自らを青年へと若返らせ、全く違う生き方を求めるようになる。「モノ消費」よりも「コト消費」がありがたがられる昨今、ファウストの選択は我々に少なからず示唆を与えてくれるように思います。 ゲーテやジッド、寺山の言は「書を捨てる」事に重きを置いていない。むしろ「捨てる」ためには多くを読み、知らなければならない。単に「捨てる」という言葉の鋭利さを利用した秀逸な皮肉だったのではないでしょうか。 さて、シャープさんの言う通り、今は町へ出るべきではありません。もちろん「町」はドアの外にだけ広がっているわけではありませんが、この機会に「書」を読む事に徹するのも悪くないかもしれませんね。 コロナ禍に僕たちができることもほとんどありませんが、 よろしければ、我々の雑誌もぜひお供させていただければと思います。 (持ってない方、下のコメントフォーム等からご連絡いただければ郵送等でご対応できるかもしれません!) 余談ですが、なんとシャープ株式会社公式アカウントの中の人こと山本隆博さん、
文フリ参戦してた。 Amazon在庫もあるようなので、気になった方は調べてみてくださいね! 5月文フリは開催中止となりましたが、11月(もしくはもっと早く?)はより一層盛り上がりそうですね。 我々習作派も精一杯頑張りますよ! それでは、僕はSHARP COCORO LIFEの登録作業があるのでこの辺で。 おやすみなさい。 (参考:http://lib.soka.ac.jp/Library/SEASON/no9/sno9_1.htm) 秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉 僕(石田)が先日たまたまブ○クオフに立ち寄ったとき、思わず「ジャケ買い」をしてしまった本があります。 石黒正数さんの『外天楼』(講談社KCDX、2011年)というマンガです。 よそおいの詩装丁は宮村和生(5GAS)さんという方だそうです。 シンプルなデザインですが、それがコミックスの並びのなかではかえって眼を引くんですね。 写真ではややわかりにくいのですが、表紙カバーには特殊紙が採用されており、シリコンコーティングされたようなマットな手触りです。一方で人物イラストの部分などは透明インクの厚盛になっていて、触感の違いが手に楽しい。 余白を広くとった詩的で内省的なデザインを、紙の工業製品的な質感がうまく中和しています。そこにデフォルメの効いた現代的なタッチのイラストと、タイトルロゴが乗ってくる――都会的でポップだけれど、どこかちょっと切ない、そんな物語性ある装丁になっていると思います。 表紙をめくった「扉」の部分には半透明でつや消しの紙が用いられ、背景のイラストが透けるようになっています。トレーシングペーパー的なアレです。 よくある手法といえばその通りなんですが、このトレーシングペーパー的なアレが作家性をうまく演出しているように思いました。作品の完結性を物質的な面からも際立たせているといいますか。こういう工夫は電子書籍には難しい部分かもしれませんね。 意味という救済そして肝心の作品内容なのですが、こちらもたいへん面白かったです。 なんというか、うまく既存のジャンルの網をくぐり抜けているような印象がありました。 一見して内容を想像しにくいタイトルであり装丁なのですが、それはおそらく計算されたことなのでしょう。「これはいったいなんの話だろう」と思いながら読みましたし、それが楽しかった。 もちろん個別にはSFなりミステリなりの要素を指摘できるのですが、しかし全体としてはやっぱりジャンルに還元できない一種独特な空気感が残ります。そこには物語の展開がわりあいにゆっくりだということも関係しているかもしれない。つまり「日常」のテンポで「非日常(物語)」を描くことで、ジャンル性を帯びさせる物語要素(「殺人」や「ロボット」のような)をそれとして際立たせずに扱うことができる、ということです。 そうしたこともあり、読み終わってみるとエンターテインメント的な爽快感というより、登場人物の体温のようなものが残っている。 このあたりはぜひ読んでみてください。僕個人としては第3話「罪悪」が好きかなあ。 違和感を違和感として描かず、当たり前のものとして貫徹させる表現のことを俗に「シュールだ」と形容することがあるように思います(対義語は「ベタ」でしょうか)。この作品の登場人物たちも、日常生活の地平で些細な違和感を積み上げてゆくという点で、なんとも「シュール」なコミカルさを有しています。 しかし、それだけでは終わらない。違和感を違和感として指摘する視点(=「ツッコミ」?)こそ存在しませんが、この作品は違和感を決して不条理へと投げ出しては終わりません。これ以上言うとネタバレになってしまうので控えますが、このあたりもぜひ読んでみてください。 一点だけ残念だったのは、作中で田舎から都会へ出てきた青年が露骨な方言を使うくだりで、これはいらないだろうと思いましたが、全体としてはやはり、とても面白い作品だったと思います。次作は書店で買わないと。 ちなみに、僕は最後まで読んでから気づきたいへん驚いたのですが、この作品、講談社の文芸誌「メフィスト」で2008年から2011年まで連載されていたものらしいです。 そう言われてみると「なるほど」というか、何気ないようでいてエッジの立った表現であることにも納得のゆくものがありますね。 そうこうしているうちに、11月も半ばを迎えようとしています。 23日(木祝)には1年ぶり2回目となる「文学フリマ東京」への参加も控えており、いよいよ修羅場というところ。ちなみに習作派のブースはB-27です。ぜひお立ち寄りください。 そろそろ編集作業に戻らなければいけませんので、今夜はここまで。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
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