第三十一回文学フリマ東京で購入した冊子最初のレビューは、蠍の毒針さんの「手遅れ」です。 とばりを思わせる濃紺に、イスラミックな光のモチーフが描かれた目を惹くデザインです。背後には暁月が置かれ、それを煌く星々が取り囲む構図。 イスラム圏の国々では国旗に月がデザインされることもしばしばあり、月が「発展」、星が「希望」「未来」のような意味で捉えられることが多いと聞きます。日本では「三日月」と「暁月」は明確に区別されますが、イスラムでは同一視する向きもあるようで、左右対象にシンボルとして使われてるのをよく見かけます。 実際のところ系外恒星から届く光というのは何万年も何十万年も前のものであるため、それを知っている我々からすると「未来」という意味合いをアイロニックに捉えることも可能かもしれません。しかし、雨の少ないアラビアの夜空に散りばめられた星々を見れば、きっとその超越的な神秘性を感じ取らずにはいられないでしょう。 アラビア語で「針」を意味する”(al) shaula”が由来となった蠍座の尾に位置する星がサークル名にも使われていることからも、そうしたポジティブなメッセージを含んでいることが予想されるデザインです。 しかし、表紙中央には「手遅れ」という白字が置かれている。どう考えても前向きには捉えにくい単語です。こうした嬉しい裏切りだけでも、手に取るに十分な本でした。 ページをめくると、「手遅れ」の理由が書かれています。主催の露草あえかさんのある一つの「手遅れ」から、寄稿者のみなさんの「手遅れ」を集めることにつながったことが説明され、それらが私たちの「手遅れ」の認識を前向きにアップデートする。表紙の矛盾は、もしかしたらこの認識相違を言い当てるものだったのかもしれません。 さて、実に8名の方が書かれているアンソロジー短編集です。もちろんすべて楽しく読ませていただきましたが、そのすべての感想を書いていると冗長になりかねないので、ここは思い切って、主催の露草さんの短編「方向音痴」に絞って書かせていただければと思います。 (もし関係者の方がご覧になって、奇特にも感想が欲しいとのご要望があればまた考えますが……。) 『方向音痴』露草あえか 著浮気をした翌日、女が目を覚ました場面から始まります。飲み会の半ばで自分に気のある後輩と抜け出して、というままある火遊び。静かな場面描写の中に昨晩脱ぎ散らかした衣服がそのまま放置されているところが描かれ生々しい息遣いが想起される。 携帯を開くと彼氏からのメッセージ。しかし女は後ろめたさを感じつつもどこか場違いな安心を覚えている。 そのないまぜの感情は女の回想の締め括り、どこか他人事な評価で明らかになります。 悪くない文脈だった。ラブロマンスとしては上出来だった。夜が過ぎたあとのことなどより、その瞬間の雰囲気を、次の展開を考えて立ち回った。そのほうが物語はうつくしかったから。 女は昨晩、自分を物語の主人公に見立て、一晩の過ちを一つの章になるように行動したのだと言います。きっと彼女は普段から俯瞰的に自分との関わり合いを観察し分析し、「うつくし」くなるように調整しているのでしょう。彼女がそう振る舞うようになったのには、おそらく彼女の恋にたいする苦手意識が根底にあるのだと思います。 離人症という病気がありますが、彼女はそういった病的な感覚に襲われているわけではありません。彼女自身、その調整を楽しんでさえいるような印象を受けます。大理石のチェス盤に置かれた自分のクイーンを動かし、無駄な動きなくチェックをかける時のように。 しかし、「安心」は違和感へと変わってゆきます。目を覚ました隣の男から、彼女は自分が泣きそうな顔をしていたことを指摘される。そんな顔をしたつもりはありませんでした。「うつくしい物語」の中に、悲痛は必要なかったはずなのです。 後輩の男と別れ、彼女は彼氏のことを思い返します。そうさせたのは金木犀の香りでした。思い出の季節、秋。さみしさと弱さを知ってしまう季節。彼の透き通った声や切れ長の目がリフレインする。非の打ち所のない彼の前で自分がひどく弱く感じたこと。憧れと恐れは似ています。それがきっと彼女の恋につながったのでしょう。おそらく、昨晩の過ちにも。 彼からの電話が鳴り、彼女は取り、短い会話がなされます。少ない会話文の間に感情や記憶や後悔が長く連なって、悲哀に満ちているも一種のリズムが形成される。読者は彼女と同じ時間を共有し、彼の言葉に引き摺られてしまう。 やっと感情が追いついた時。自分の過ちに気づいた時。そこでおそらく電話は切られ、物語が終わります。このテンポと言葉選びは見事の一言です。 全体を通して美しい表現が散りばめられ、それこそ街の明かりの中から見上げる夜空、微かにひかる1等星の輝きが嬉しくなるような、そんな印象の掌編でした。女性ならでは、という表現はあまり好きではありませんが、経験と感性からくる書きぶりだな、と感じます。 惜しむらくは、彼氏の人間性が描写されているものの、彼女の説明と短い会話の中で彼の為人を僕(久湊)の中で構築しきれなかったことです。まぁ、僕の人間性があんまり良くできてない証左ってことかもしれませんが……。 適切な表現かわかりませんが、気持ちよく読ませていただきました。次の機会があればまた読んでみたいと思っています。 余談ですが、僕はこの本を文フリ帰りの電車で読んでいたんですが、読み終わってプロフィールのページを見ると、 露草あえか とあり、今まさに彼女は髪振り乱してんのか……作風とのギャップえぐ……としょうもない感想を抱きました。曲も聞いてみたいな。 ちなみにプロフィールはこう続きます。 彼氏のことが大好き。 超おしあわせに。
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昨日、一年ぶりの文学フリマ東京への参加をしてまいりました。 さいきんは特にH Pのメンテナンスが疎かになってしまっていたために、文フリ大阪のレビューもできていない中での連続参戦となったわけですが、兎にも角にも、実行委員の方々には頭が上がりません。 僕たちもこれで5回目の文フリ参加となった今回は、前回の春開催が非常事態宣言によって中止となって以来初めての東京でした。そのため多くの参加者にとって待ちわびた日で、それは委員の方々にとっても同様だったのだと思います。会場前の参加者向けのアナウンス、その後に湧き上がった高揚した拍手には、その感慨を感じさせるに十分な熱量があったと思います。 もちろん、お客さんあっての文フリですので、ご購入いただいた方はもちろん、手伝ってくれた友人、手に取って下さった方、差し入れを下さった方、会釈してくれた方、目線をくれた方、うちの新刊を見て「可愛い〜〜」と言って普通に通り過ぎて行った女子大生ぽい3人組、そのみなさんのお陰で私たちは今後も描き続けていくことができます。本当にありがとうございました。 次回の予定に関してはまた時期を見てお知らせしたいと思いますが、文フリには今後とも参加を続けていくつもりですので、次こそは女子大生に足を止めてもらえるように精進してまいります。 ということで、参加した大阪と東京のレビューを(できる範囲で)やっていけたらと考えています。ご興味ありましたら、是非ご一読ください。 ではまた。 実家の母から突然のLINEです。 「ちょいとお願いです 2度読み返して、こう返しました。 「無茶です(原文ママ)」 母からの連絡は大抵こういった依頼ごとなので内容自体は特筆することもなく、まぁ強いて言えばキャッシュレス全盛のこの時代にクレジットカードの登録方法もわからないのかと嘆息する程度なのですが、ちょうどふた月くらい前の連絡では「ペイペイの登録方法を教えて」とまるでSiriにでも頼むかのように言われたので今回は自分で情報を収集できたことに喜びを見出すべきなのかもしれません。母よ、息子はあなたの成長が嬉しいです。 ともあれさすが天下のシャープ様(ステマではない)、SDGsに則り大衆に向けて即物的な貢献をされる、しかもその宣伝が行き渡っていることの素晴らしさ、その質実剛健なブランディング力(繰り返すがステマではない)に惹かれてちょっと見るだけ見てみようかな、と思い先のサイトにアクセスしてみました。 すると、サイト下部にTwitterの埋め込みバーが。トップには誰かのリツイートが表示されていました。
いうまでもなく寺山修司「書を捨てよ町へ出よう」のオマージュです(よね?)。 ハッシュタグ化されているので皆さんの目にも留まっているかもしれませんが、いやなんとも、うまいこと言ったものです。まさに目のつけどころがシャープ(最近聞かない)。全国的な自主的自宅軟禁ムードにうまく光をあて、かつ巨大企業に求められるノーブルオブリゲーションめいたものも果たす名文。でもなぜだかRT、いいね共にそこまで伸びていない。なんでだろう。こういうところがTwitterの難しいところなんだろうか。 とにかく面白そうだったのでパラパラみてたんですが、界隈ではこのハッシュタグがこの外出自粛期間に読むべきおすすめの本紹介のpostに付されるようになっており、結構な数使われているようでした。とりあえず僕もこれ書いたら流れに乗ってみようかなって思います。 ところで。 僕てっきり「書を捨てよ町へ出よう」は寺山の言だと思っていたんですが、調べてみるとどうやら違うようでした。 寺山修司は言わずと知れた劇作家ですが、彼の主宰した劇団「天井桟敷」は60年代のアングラ演劇ブームの火付け役でした。『毛皮のマリー』『身毒丸』なんかで有名ですね。『身毒丸』は95年に蜷川幸雄演出・藤原竜也主演で、『毛皮のマリー』は昨年2019年に美輪明宏主演で上演されるなど、今でも語り継がれカルト的な人気を誇る戯曲を数多く生み出しました。毛皮のマリー、チケット外れたんだよな……。 (ちなみに僕はあんまり詳しくないんですが、寺山作品を全作品上演することを目標に掲げている【池の下】さんという団体の演出が結構好きです。寺山好きの方はぜひ!) その「天井桟敷」の数ある作品の中でも出世作と言われているのが『ハイティーン詩 書を捨てよ町へ出よう』です。上演の前年に刊行された寺山本人による評論集「書を捨てよ町へ出よう」がタイトルとして選ばれました。 僕は映画版しか見てませんが、 「映画館の暗闇でそうやって腰掛けていたって何も始まらないよ…」 という猛烈なメタ発言から始まる暗くてじめっとした物語軸、憤懣やる方ない青春を過ごす主人公の鬱屈した存在感、過激なミュージカル演出と、胃もたれするような要素がこれでもかと詰まっていたように感じました。 高カロリー高タンパク。 とまあ、冗長に書いてしまいそうになったので閑話休題、 込み入った寺山修司論的なものは詳しい方に任せるとして、問題はタイトルの出典でしたね。 寺山自身は早稲田大学在学時に病気をしたようで、長い入院生活、療養期間の中で大量の本を読んだとされています。そりゃ読むでしょうが、量が尋常ではなかったのでしょう。復帰後その時の経験から評論集「書を捨てよ町へ出よう」を出版、そのタイトルについて巻末にて触れています。これによると、厖大な読書の中で見つけたアンドレ・ジッドの『地の糧』という紀行詩集に、「書を捨てよ、町へ出よう」という言葉が出てくるとのことなのです。 このタイトル、受け取り方は人それぞれですが、おおかた、 「本を読むのはそれくらいにして、外に出ていろいろな体験をしようぜ!」 という反読書論的・体験至上主義的なスタンスを想像すると思います。まるで「この本を読むなよ!」とでも言わんばかりの表題におかしみを感じて多くの人がこの本を手に取ったはず。にもかかわらずそのタイトルそのものがマニアックな本の引用というのはこれいかに。 ともすれば逆にものすごく寺山的であると言えるようなこの斜に構えた命名に、寺山自身は何か説明を付しているわけではありません。しかし寺山は、それにジッドは、どうやら生涯を通して大変な読書家であったらしいということがあちらこちらで見受けられます。 一方で、知識への執着から抜け出し、生の実感を得るべく体験を求めるという筋書きには、 他にも思い当たるところがあります。 18世紀ドイツの文豪ゲーテの戯曲『ファウスト』。その主人公であるファウスト博士は、当時ヨーロッパで主柱とされた哲学・神学・法学・医学そのどれもに精通していた大天才でした。しかし博士は猛烈な知識の探究・研究の果てに、ほんとうに知りたいことは学問ではわからないということに気づき絶望します。彼は誘惑の悪魔メフィストフェレスを召喚し自らを青年へと若返らせ、全く違う生き方を求めるようになる。「モノ消費」よりも「コト消費」がありがたがられる昨今、ファウストの選択は我々に少なからず示唆を与えてくれるように思います。 ゲーテやジッド、寺山の言は「書を捨てる」事に重きを置いていない。むしろ「捨てる」ためには多くを読み、知らなければならない。単に「捨てる」という言葉の鋭利さを利用した秀逸な皮肉だったのではないでしょうか。 さて、シャープさんの言う通り、今は町へ出るべきではありません。もちろん「町」はドアの外にだけ広がっているわけではありませんが、この機会に「書」を読む事に徹するのも悪くないかもしれませんね。 コロナ禍に僕たちができることもほとんどありませんが、 よろしければ、我々の雑誌もぜひお供させていただければと思います。 (持ってない方、下のコメントフォーム等からご連絡いただければ郵送等でご対応できるかもしれません!) 余談ですが、なんとシャープ株式会社公式アカウントの中の人こと山本隆博さん、
文フリ参戦してた。 Amazon在庫もあるようなので、気になった方は調べてみてくださいね! 5月文フリは開催中止となりましたが、11月(もしくはもっと早く?)はより一層盛り上がりそうですね。 我々習作派も精一杯頑張りますよ! それでは、僕はSHARP COCORO LIFEの登録作業があるのでこの辺で。 おやすみなさい。 (参考:http://lib.soka.ac.jp/Library/SEASON/no9/sno9_1.htm) |