昨年十一月二十三日、文学フリマ東京に参加してきました。わたし(石田)が東京でブースに立つのは3年ぶり。懐かしい顔ぶれやはじめての皆様にお会いできたことは嬉しい限りです。那智さんも当日、習作派のブースにお越しくださいました。自分たちの本に興味をもってくださった方が、どのような文章を書いておいでなのかということはどうしても気になるもので、半ばせがむような形で“売っていただいた”のがこちらの一冊でした。
ほんとうは年内に公開するつもりで記事を準備していたのですが、小説としての強度がきわめて高く、またそれゆえに、わたしはこの作品と真剣に対峙することで色々なことを考えさせられたので、ずいぶん時間がかかってしまいました。書評というよりは読書メモといった方がふさわしいかもしれませんが、その記録を書いておこうと思います。 ※以下、ネタバレを含みます。 『青の痕』(那智)
『青の痕』——ここで描かれるのは、高校で英語を教える「俺」と、ひとりの男子生徒「風見」との交感です。
とある進学高で英語を教える「俺」は、生徒たちから慕われながらも、静かな孤独のうちに日々を過ごしている。ある日、「俺」はひょんなことから自身の身体に残る“傷跡”を、教え子のひとりである風見に見られてしまう。ふだんは衣服で隠している“傷跡”——それはかつて親から虐待を受けたときのもので、その悪夢は今なお「俺」を苛んでいた。いっぽう風見もまた、親からネグレクトを受けていた。ふたりの関係は特別な親密さを帯び始める。誰もいない家に帰ることを拒み、「俺」に抱いてほしいと求める風見。愛情への飢えとも、年齢相応な性的好奇心ともつかないその求めに溺れかける「俺」……。 大切なものを欠いたまま大人になった「俺」と、永遠に欠いたまま大人になろうとしている「風見」……ふたりの切なくもエロティックな行き連れは、文庫判にして五十頁に満たない掌編でありながら、鮮烈な印象を与えるものでした。 この小説を特徴づけるのは、きわめて理性的で抑制のきいたその文体です。”BL”で”R-18”という、ある意味ではかなり様式性の高いジャンルを志向しながらも、その冷静な語り口はひろく多様な読者を獲得しうると思います。 「冷静」とはどういうことか?本作において作者は「教師―生徒の性愛」というタブーの「侵犯」と、それを成立させる事情についての「エクスキューズ」を巧みに配置することで、ブレーキとアクセルを踏み分けながら坂を昇り詰めるような効果を描出しています(※)。侵犯者の心理を描くときには、罪を犯さずにはいられないという意識と、それを回避しようとする良心との両面に踏み込むことでリアリティが生じるわけですが、とりわけこの作者は行為と事情との、《罪》と《良心》とのバランスを量るのがとても上手だということです。 ※註:このように書くと、多くの読者諸氏はG.バタイユの理論を想起されるかもしれません。しかしバタイユのエロティシズム論をここに引用することには慎重にならなければなりません。バタイユは、死すべき孤独な存在としての人間が、自身の非連続性(個体性)を超出して連続性へと至る運動としてエロティシズムを考えました。その過程において、主体の非連続性を条件づけているさまざまな「禁止」は、主体そのものによって「侵犯」される。つまり、「自分を自分たらしめているルール」を破ることにエロティシズムの核心があるとバタイユは考えた。 しかし本作において、主体ははじめから登場しません。「俺」も「風見」も、その成長過程において必要なケアを受けず過ごしたために、独立した主体としての自己を確立できていないからです。作者の言葉を借りれば、ふたりはあくまで「欠けている大人」と「17歳」でしかないのです(p.50『あとがき』より)。したがってここでの「侵犯」とは、バタイユのいうそれとは区別して考えています。 たとえば以下のくだり。 ねだられるままキスをした。雨に湿った髪を撫でて、簡単に火照る首筋に触れて、拙く求めてくる舌を何度もなだめた。教室では呼ばない名前を一度だけ呼んだ。すがりつく体はいつも小さく震えていた。(p.16)
「俺」と風見とが車内で唇を重ねる生々しいシーンですが、きわめて緻密な計算が働いていることもわかります。各文のレベルで分析してみましょう。
①「ねだられるままキスをした」 まず、冒頭の一文について。衝動的なことのはじまりを表す端的な一文ですが、あくまでキス=「侵犯」は風見から「ねだられた」というエクスキューズが付されています。 無論ここで「エクスキューズ」といっても、それは本質的な弁解を意味するわけではありません。現実には成人が性的同意能力のない未成年と肉体関係をもつことは罪とされていますし、そのことは「俺」もまた承知している。そうではなく、あくまで「俺」の心理における罪悪感の一時的な緩和として「エクスキューズ」が機能しているということです。 ②「雨に湿った髪を撫でて」 ここでは風見というキャラクターの背景が示されています。本作において、風見が内的に欠落を抱えた少年であることは、「傘を差さずに雨に濡れる」という一種の自傷的行為が繰り返し描かれることで強調されてきました。そうした風見の危うさが、この車内においては大人である「俺」によって受け止められる。性愛の文脈を取り払って読めば、それはほんらい、傷つき不安定な子どもを前にした「大人として当然の」まったく「倫理的な」振る舞いのはずでした。しかし「俺」もまた暴力のサバイバーとして決定的な欠落を抱えながら生きているがゆえに、ほかならぬこの抱擁こそが堕罪への“躓きの石”となる。 このように、傷つき求め合う者どうしのシンパシーが日常的倫理とのあいだに取り持つ緊張関係こそ、まさしく本書のテーマなのであり、「俺」と「風見」の孤独として作中幾度も変奏されます。 生まれた瞬間から当然与えられるべきあらゆるものを、持たないままで育つ子どもがいる。抱擁の温度を知らないまま、静かに損なわれ続ける子供が。(p.17)
繰り返される独白はどれも切実なものであり、「俺」と風見が成年—未成年という関係に留まらず、教師—生徒という二重のタブーを破っているという現実を際立たせています。
③「簡単に火照る首筋に触れて」、④「拙く求めてくる舌を何度もなだめた」 つづく二文も同様の構造を持っています。身体的接触という「侵犯」がなされながらも、風見が「俺」の愛撫に敏感に反応し、あるいは自分から積極的に”求めて”いるというエクスキューズがなされる。重要なことなので繰り返しますが、ここでいう「エクスキューズ」というのは本質的な免罪ではなく、主人公にとって行為への没入をいざなう装置であるということです。 ⑤「教室では呼ばない名前を一度だけ呼んだ」 一方、これは決定的な「侵犯」というべきでしょう。わたしの読み落としでなければ、風見に対して「俺」の衝動がなんらかの形で「結実」するのは、作中でこの文章ただ一度きり。じつは本作において、キスやペッティングまでは描かれるものの、セックス(性器の挿入)はありません。偽善的なルールであると知りながら、「俺」が自らにペニスの使用を禁じているからです。従って、どれほど衝動が高ぶろうとも、最終的に「俺」自身が一般的な意味でのオーガズム(=射精)に達することはない。 だからこそ車内で抱き合い、風見の名前を口にするこの一瞬は、疑似的でつつましいオーガズム体験として、唯一「俺」自身の「侵犯」を示す根拠となる。 じっさい、抱擁のさなかに「名を呼ばわる」とき、そこではオーガズムによく似た自我の溶解dissolutionないし溶出élutionが経験されているように思われます。古今「名」はその人自身と紐づいたものとして呪術や宗教的秘儀(戒名や洗礼名など)の対象となってきましたが、意識が逆光のなかで震えるあの瞬間、無限に落ち続けていくようなあの感覚のなかで、他者の名前というのは唯一のよすがとなる。 しかし、にもかかわらず、作者は風見のファーストネームを決して明かしません。「教室では呼ばない名前」というその特別なことばは決して読者には開示されない。いっぽう後段、風見の側が「達する」瞬間にはその様子が描かれています。 果てる瞬間、風見は小さくハルと呼んだ。
十七歳の少年が二十七歳の教師の体を求めるということと、その逆とでは、“罪”の重さは、けっして等しくない。「書かれるべき内容が書かれない」ということの裏には、こうした関係の非対称性があります。
BL文学とともに
そう考えてみると、この筆者の書き振りのなんと緻密なことでしょう。情念のもつれを描くからといって、書き手が情念に流されていてはつまらない。むしろ燃えるような絶頂においてこそ、書き手の意識はひややかに冴えて研ぎ澄まされねばならない。文学作品が、現実の社会規範をいちど俯瞰したところに打ち立てられるものだとするならば、できあいの法律も道徳も存在しない荒野に踏みとどまって、それでもなお尊いものを描くところに書き手の「倫理」はあるのでしょう。ゆえに書かれた世界に決して惑溺しない「強さ」と「冷静さ」こそ、すぐれた書き手にとって不可欠の資質となる。こうしたモラルに支えられた細部を、わたしはとても好ましく読みました。
愛への痛切な渇望を描きながらも、安っぽいセンチメンタルな描写に堕しなかったこの作者の筆力は相当なものがあると思います。誤解を恐れずに言えば、この作者にとって“BL”はもはやひとつのバックグラウンドとなっている。つまり、作者は“BL”から出発してより普遍的な文体へとたどり着いているようにみえる……というと“BL”を過小評価しているでしょうか。あるいは、こうした文体上での「かけひき」こそが“BL”文学の様式性の精髄なのかもしれません。だとすると、この作者は最良の意味での“BL”の紹介者であるといえるでしょう。いずれにせよ、多くの読者に届くべき作品だとわたしは思います。 堪能したので、今夜はここまで。 それではごきげんよう。
石田幸丸(習作派編集部)
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文学フリマにむけて書いていた作品の入稿が終わり、山のように資料が積み重なった机上を片付けていて、ふと読みたくなった本がありました。乗代雄介さんの『旅する練習』です。 宝石はその小ささゆえに芥川龍之介賞は次点(受賞は宇佐見りん『推し、燃ゆ』)、そして三島由紀夫賞を受賞した作品です。帯が資料の山にまぎれてどこかへいってしまったのでうろ覚えですが、「歩く・書く・蹴る ロード・ノベルの傑作」みたいなキャッチコピーが付されていました。 余談ですが、僕はこのくらいの分量(原稿用紙二百枚前後くらい)の、短編一作品からなるハードカバー書籍がとても好きです。なぜなら、この空間に対して余白の多いコンパクトさは、ほとんどそのまま純文学で書く若手作家の可能性そのものだから。 純文学における新人作家の登竜門とされる芥川賞は、主に中・短編をその審査対象としています。それに合わせたのであろう各文芸誌の新人賞も、おおむねこのくらいの規定枚数になっています。いっぽうでベテランになると長いものが増えたり、短編集として編まれたりと、こうした小品はあまり出版されなくなるように思います(たとえば村上春樹さんは、デビュー後数作で長編に移行していったために結局芥川賞を獲らずに終わった、なんて言われることもありますね)。ですから、この小ささ・薄さはとても象徴的なもの。「あえて本にしている」というか、若手作家のみずみずしく荒削りな才能を、出版社が大切に送り出しているような気がして、手にした時に読者として新鮮なよろこびがあるのです。あるいはそれが、脱稿直後の僕自身の気分とも符合していたのかもしれません。 閑話休題、内容についてです。 帯に「ロード・ノベル」と書かれているのだから、もちろんロード・ノベルなはずがない、そう思って読み始めたのでした。 ロード・のべらない小説家の「私」は、中学受験を終えたばかりの姪・亜美とともに、我孫子から鹿島へ向かって徒歩の旅をはじめます。鹿島といえばJリーグクラブ・鹿島アントラーズのホームであり、日本におけるサッカー文化を開花させたはじまりの街。サッカー少女である亜美がかつてそこへ合宿にゆき、ある「忘れもの」をしてきたことが旅のきっかけでした。利根川沿いの堤防を、亜美はドリブルをしながら、そして「私」はおりにふれ野鳥の生態や過去の文学者への追想をまじえた紀行文を書き留めながら、いっしょに歩いてゆくのです。 アントラーズに、そして日本のサッカー人に、選手としてのプロフェッショナリズムを根付かせたのは、ほかでもないアルトゥール・アントゥネス・コインブラ、すなわちジーコでした。作中でもこのジーコと、日本中を歩き回って旅をした民俗学者・柳田國男のふたりの言葉がたびたび引用されます。両者に共通するのは「忍耐」ということですが、それについて印象的な表現を引用してみます。 そして、本当に永らく自分を救い続けるのは、このような、迂闊な感動を内から律するような忍耐だと私は知りつつある。(中略)この旅の記憶に浮わついて手を止めようとする心の震えを静め、忍耐し、書かなければならない。後には文字が成果ではなく、灰のように残るだけだろう。(p.104) その影を残すことが、私にとっては鮮やかな記憶を文字で黒々と塗りつぶすことだとしても、死が我々に忘れさせるものを前に手をこまねいているわけにはいかないのだ。書き続けることで、かくされたものへの意識を絶やさない自分を、この世のささやかな光源として立たせておく。そのための忍耐と記憶——(中略)「人生には絶対に忘れてはならない二つの大切な言葉がある。それは忍耐と記憶という言葉だ。忍耐という言葉を忘れない記憶が必要だということさ」(p.130) 前者は柳田國男の、後者はジーコの言葉を受けたものです。物語の結末にかかわるので、その意味について詳述することは避けますが、しかしこの表現は、僕に次の歌を思い起こさせました。 ながらへばまたこの頃やしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき (藤原清輔) 新古今和歌集に採られ、百人一首にもおさめられている有名な一首ですが、僕は昔からこの歌がとても好きです。追憶のもたらす繊細なセンティメントと、平安人らしい長閑なオプティミズムが溶けあった、なんとも高雅な詠みぶりだと思いませんか。 こうしたノーブルな態度は、単純に「生きられる」ものというよりも、「書かれる」ことによってはじめて意味をもつものであるような気がしています。運命に身を任せるのではなく、かといって悲嘆に暮れるのでもないとすれば、それは記憶され、詠まれ=口にされ、書き留められることによってはじめて楽観論たりうる。それが生の現実とのつながりを保ったまま、同時に現実を超え出てゆくような強靭さを獲得するためには、そこに明確な「意志」の発露がなければならないように思うのです。本作品の題にある「旅」とは、畢竟この「意志」のことではないかと僕には思われます。その意味で、やはりこの物語はロード・ノベルではなかった。茫洋とした道のひろがりを「前にした」小説、まさに「旅する練習」にほかならない。 だとすれば、それは外出を封じられ、うつりゆく世界を前にしながらどこへも旅することができずに自室で「忍耐」を迫られているわれわれにとってぴったりな小説なのかもしれません。 芥川賞の選評では、人物造形の難や、形式を束縛している作者のナルチシズムが問題にされていました。そうした部分についてはいったん措くとして、「現代小説」の試みとして面白いなと思ったので、記事にしておきます。 ひさしぶりのブログなので、今日はここまで。 それではごきげんよう。 石田幸丸(習作派編集部)
(※長いので記事を上下に分割しています。タイトルとエディトリアルデザインについては(上)をご覧ください)
初谷むいの懐疑と解答
では、もう少し踏み込んだ分析をしてみます。
『朝になっちゃうね』には十九首の短歌のほかに、一篇の「歌序」とでもいうべき文章が収められています。 恋人か親友か、親しい相手に内心で語りかける体裁をとっており、いまは一緒にふざけて笑っているけれど、いつか一緒にいられなくなる日がくることを予感している……といった内容です。気になるところがあったので、一部を抜粋してみます。 あーあ、といったらあーあ?と返されたことがあったよ。特に理由なんてないんだ。伝わる言葉なんてない。わたしたちは横にいたっておんなじものをおんなじ目で見ることはできないし、あなたはいつか、とおくにいくんだろう。 いつかだいすきなひとが、できるでしょう。これはおそらく、予言だ。祈りだ。あなたはいつまでもあなたらしくあるだろう。わたしはそれがとてもうれしい、いつかほんとうの言葉で話せる日が来たら、わたしはまっさきに、それをあなたに伝えます。らびゅう。ずっと、げんきでいてね。
「特に理由なんてないんだ。伝わる言葉なんてない」と、他者との間に横たわる埋めがたい溝について語るとき、詩人は二重ないし三重の否定を経験しています。(I)言語の有限性と、(II)主体の有限性、そして(III)主体の不確実性です。
(I)言語の有限性に関して言うならば、近代のロマン主義芸術が志向したような、あらゆる形式から離れたおのれの内的感情の表出そのものであるような「言葉」は、この詠者にとって現実的ではないということです。 しかし、かりに内的感情や自己存在とぴったり符合するような「言葉」が存在するとして、それが「伝わる」という保証はどこにもない。これが(II)主体の有限性です。「わたしたちは横にいたっておんなじものをおんなじ目で見ることはできない」というのは、自己は永遠に自己でしかありえず、他者との間には共役不可能なものが残り続けることへの感覚だといえるでしょう。 (III)主体の不確実性というのはこの両者に関わるものです。「特に理由なんてないんだ」というのは、他者につたえるべきおのれの根拠がないということにほかなりません。ロマン主義的な「自我」は、ロマン主義―表出主義的な「言葉」と不可分であるとして、われわれは後者なしに前者を維持することがはたして可能なのでしょうか。
われわれは自己という檻に閉じ込められ、そこから抜け出ることはできない。しかしその檻の中に閉じ込められているのはほんとうに「わたし」でしょうか。もし、鉄柵の奥には空虚しかないとすれば……。
しかしながら、詩人は「いつかほんとうの言葉で話せる日がきたら」とも語っている。そこには近現代の芸術における「真正さAuthenticity」への志向がはっきりと踏襲されています。ようやく、ここに僕のこの詩人にたいするシンパシーの輪郭を明らかにすることができます。それは懐疑の果てにある希望です。 水母の骨
詩人は短歌雑誌『ねむらない樹』の別冊企画に、「わたしたち歴史のこどもです」と題したエッセーを寄稿しています。そこではこのように書いていたのでした。
世界は変わりつづける。わたしは世界の中にいる。海のかたちだって、百年後はにはまったくちがうだろう。誰だって歴史の中にいて、過去の歌は読めるだけでもう増えない。しかし、わたしたちが歌を作る限り未来に歌は存在しつづける。それは希望だと思う。(『ねむらない樹 別冊 現代短歌のニューウェーブとは何か?』2020年、書肆侃侃房、p.243)
詩人は、自分の志す口語短歌なるものが、いまから三十年ほど前に生まれた「ニューウェーブ」と呼ばれる運動の産物だと知ったとき、「えっ、世界ってもう変わってたの」「わたしは整備されたあとの海を漂っているらしい」と驚いたといいます(同上)。
芸術における「創造」が、「わたしらしさ」の十全な表現とイコールにみなされるようになった過程についてはC. テイラーが指摘した通りですが、歴史のなかに位置づけられることで、若き詩人の野心は挫かれ、自己を自己たらしめるよすがを失い、ただ「海を漂う」ことしかできなくなる。 「書き尽くされている」という絶望的現実を前にして、それでも「わたしにしかできないことをしたい」という願いの、なんと弱々しく頼りないことか。
しかし詩人は「書く」ということを選んでいます。
あるいは極私的な領域へと退却してしまって、「自分だけに分かることば」で「自分だけに宛てて書く」という自己陶酔に耽ることもできたのに、その誘惑を撥ねつける。「いつか本当の言葉で話せる日が来たら、わたしはまっさきに、それをあなたに伝えます」と語る。 西洋古典学者の逸見喜一郎先生は、「韻律とは音の文法である」とした上で、「韻律は作品の成立に縛りを与える。その縛りがあることから、ことばはいっそう先鋭な意識で選ばれる」と述べておられました(『ラテン文学を読む』岩波書店、2011年。p.vii)。 ひょっとすると、現代口語短歌の魅力というのもこのあたりにあるのかもしれません。歌人たちは定型の無批判的な踏襲を拒み、口語と四拍子説によって限りなく韻律の放棄に近づきながら、しかしおのれの自由な言葉への疑いも失っていない。形式への懐疑と、「私」への懐疑という一対の合わせ鏡のなかで、世界はふたたび無限の像を結びはじめる。 「ほんとうの言葉」のありかを示すもの、きっとそれは終わりなき懐疑であり、自縛であり、にもかかわらず書き続ける決意です。僕はここにこそ現代の希望があるといいたい。 ちなみに僕がこの本のなかから、タイトルのほかにもう一首選ぶとするならば、 その顔じゃまぶしいのかわたしを好きなのかわからない夜の自販機の前 がよいと思います。 眩しさに目を細めた表情と、照れかくしの微笑みとを重ね合わせる発想の見事さはもちろんのこと、私的でちいさな世界の、ほんの一瞬のできごとが、「まぶしいのか」「好きなのか」というイ段音と疑問形の特徴的な反復によって、夜の街というひろびろとした世界に接続されてゆくのは爽快です。個別的なものと全体との併存——なにもかもが疑いうるとしても、ここにはすくなくとも信じるに足るものがある。 もちろん歌とともにグラフィックも美しいので、ぜひ実際に手にとってご覧になることをおすすめします。 夢幻はこちらへやってくる
さて、僕は冒頭で、この本『朝になっちゃうね』には「夢幻的」な美しさがあると書いたのでした。今にしてみれば、そこにすべての解答は準備されていたのかもしれません。
「夢幻」ということばは、フィクションとしての「幻想」と対比するとき、その現実的条件としての性格をあらわにします。幻想はたとえば「幻想文学」というように、それが幻想であると意識されるかぎりにおいて、われわれに無限の可能性をひらいてくれる(そうでなければ「あいつは幻想を抱いている」などと非難されてしまう)。一方で、それと意識しながら夢や幻を見るということは、われわれの有限な自我に対する挑戦といえるでしょう。 夢幻はこちらへやってくるもの、幻想はこちらから出向いてゆくものとでもいえるでしょうか。 夢幻であると知りながら掴もうとせずにはいられない美――その途方もなさ。
ずいぶんと長くなりましたが、真剣に向き合うに足る一冊だったことは間違いありません。
しかし、こういうZINEという形態も面白いですね。文学フリマの理念にぴったりかもしれません。 夜も深まってきたので、今日はここまで。 それではごきげんよう。
石田幸丸(習作派編集部)
(おまけ:ポップミュージック)
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